中国経済クラブ(苅田知英理事長)は11月20日、広島市中区の中国新聞ビルで講演会を開いた。東京大史料編纂(へんさん)所の本郷和人教授が「広島の歴史―武士との関わり」と題して話した。要旨は次の通り。(城戸良彰)
広島の町は、吉田郡山城(安芸高田市)から本拠を移した戦国武将毛利輝元によって造られた。どうして広島が選ばれたのか。厳島神社(廿日市市宮島町)を尊崇した平清盛の時代から、物流の中心・京都の貴族たちは西を向いていた。さまざまな輸入品は西から京都へ入ってくる。瀬戸内海は経済の大動脈だった。
輝元は凡庸な人間だったといわれる。関ケ原の敗戦後、いとこの吉川広家が徳川家康への申し開きの手紙に「輝元が頭が悪いのは皆さんご存じのことと思います」と記したくらいだ。そんな輝元でも、広島に城下町を開くという判断は間違っていない。それほど当時の広島の戦略的重要性は群を抜き、明らかだったということではないか。
毛利氏が退去した後の広島に入ってきたのが福島正則。テレビドラマの演出では粗暴な荒くれ者として描かれる。だが彼は50万石の領主で、今でいえば一流企業のトップだ。粗暴なだけで務まるわけがなく、能力のある人物だったと思う。
正則は豊臣政権下で、豊臣秀吉子飼いの武将の中ではトップクラスの石高をもらっていた。秀吉と母同士が姉妹だったという説もあり、血縁が関係しているのかもしれない。秀吉の死後、野心をむき出しにした家康が一番に縁組で取り込もうとしたのも正則だった。
秀吉子飼いで随一の存在だった正則が、関ケ原で西軍総大将だった毛利氏の後の広島を任されたのは意味があるだろう。それぐらい重要人物だった。だからこそ後に目を付けられ、重箱の隅をつつくような理由で改易されたともいえる。
正則の後、浅野氏が広島藩を治めた。調べて驚いたが、広島の人口密度は「加賀百万石」の城下町金沢に匹敵していた。よほど暮らしやすかったのだろう。江戸時代の学者は広島藩を商売上手と評している。米価の上下を見て、うまく大坂で売り抜け利益を上げていたらしい。情報を仕入れ、また迅速に運搬する能力がなければできない。
それだけ力を持っていたので、幕末には薩摩・長州と共に倒幕へ大きな役割を果たした。薩長同盟といわれるが、広島藩(芸州)も加えた薩長芸同盟ができていた。ところが広島藩は武力倒幕に異を唱えたので、明治維新後、新政府から排除されたのだと思う。
広島は平和を志向する都市だといわれる。もちろんそれは被爆を受けてのことだが、実は明治維新の頃の広島も、薩長とは違う「戦いのない世の中」を目指していたということは、もっと知られてほしい。